【日本の教育はいつの時代も官と地域との連携、地域と学校が一体で育んできました(地域活動のワンポイント知識)】
【日本の教育はいつの時代も官と地域との連携、地域と学校が一体で育んできました】
<スポーツも体育もどちらもすてきな言葉>
先日の新聞に「体育の日」を「スポーツの日」に改称するという記事が掲載されてました。「スポーツ」という外来語が、今ではすっかり日本に馴染んだ言葉となり、体を育むということを包括した、スポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、スポーツマンシップ、健康な心身をつちかうという2011 年に制定されたスポーツ基本法の趣旨に則った事情によるものだと思います。
ところが、ある新聞記事では「体育は、教育的な重圧を感じる表現なので」というような理由を挙げていました。まことに残念なことです。日本では、すべての国民に対する教育を昔から大切にしてきました。ですから、識字率はいつの時代も世界一ですし、道徳的な民度もまことに高いわけです。
<米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話>
米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話はご存じの方が多いと思いますが、長岡藩の小林虎三郎は黒船が来航したときに、横浜開港を建言したこの横浜と縁のある人物でもあります。幕末の戊辰戦争のときに虎三郎は、やってくる官軍に対し、幕府の正当性をしっかりと訴えながら、なおかつ戦わないという独自の非戦論を唱えました。
しかし、長岡藩は他藩と同盟を結んで開戦し、結果は敗れて14万2700石あった藩の収入は、わずか6分の1の2万4000石に減じられてしまいました。藩士たちは貧窮のどん底に追いやられてしまいます。
あまりの藩内の貧窮ぶりに、藩主の親戚の三根山(みねやま)藩の牧野氏がみかねて、長岡藩に米を百俵送ってくれることになりました。
飢えに苦しむ藩士たちからしてみれば、ひさびさに米にありつけるありがたいことです。けれど、百俵の米というのは、藩士とその家族の数で頭割りしたら、ひとりあたりわずか2合程度にしかなりません。長岡藩の武士たちは、その妻子に至るまで、みな腹を空かせていました。
しかし、武士は民のためにあります。戦乱を招き、結果として民にまで苦労をかけている。二度とそうならないためには、二度と同じことが起こらないようにしっかりとした人材を育成する必要があると、藩の大参事となっていた小林虎三郎は考えました。
「長岡藩の家訓は『常在戦場』にある。戦場にあれば、腹が減っても勝つためには、たとえ餓死してでも我慢をしなければならぬ。貴公らは、その家訓を忘れたか。百俵の米も、食えばたちまちなくなる。だが教育にあてれば、明日の一万、百万俵となる」と、そう藩士を説得して、その百俵を元手に、長岡藩内に学校が建てられました。 現在は、長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校となっています。
<富国強兵 地域と一体となって教育環境を創造する>
時は明治になります。豊かで強い国を作るために、緊急に全国的な学校教育制度を確立し学校を整備する必要がありました。明治四(1871)年 7 月18 日に文部省を設置し、学制取調掛という掛を設置して、イギリス・アメリカ・ドイツ・オランダの教育制度を研究します。
しかし、できたばかりの政府には、まったくお金がありません。では、政府は一体どうしたかというと、翌明治5(1872)年に「学制」を頒布(はんぷ)し、府県でこれを実施するためのわずかな国庫交付金を決定しただけでした。
一 日本中の津々浦々に学校を作りなさい
一 幼年期は男女別なく全児童を学校に通わせなさい
一 地方官はこの趣旨を国民全員に漏れなく伝えなさい ※1参考
それを伝え聞いた者は、誰もが自身で何ができるかを考えました。農村では、貴重な労力が奪われるとの反発もありましたが、それでも地域の有力者は土地を提供し、あるいは、資金を提供し、商人は資材や材料を提供しました。職人は技術を提供し、村人は労力を提供しました。技術や教養あるものは子どもたちにそれを教えました。
そうやって、「学制」頒布(はんぷ)して、わずか3年後の明治8年には、24,225校の小学校が設置され、児童数は1,925,112人にも達しました。このように、日本の教育は、いつの時代も地域と学校が一心同体で育んできました。
<横浜教育ビジョン>
この地域と一体となって教育環境を創造するという伝統は、横浜でも実施されています。2018年度は学校の取り組みが少し変わりました。横浜市では、「横浜教育ビジョン」という長期の構想があって、「教育行政は現場主義に徹します。家庭、そして地域の教育力を高めます。学校を開きます。」というような目標があって、以前から学校施設を地域行事や地域のスポーツクラブ、文化サークルに開放する「学校開放事業」というのがあります。かつては学校の教職員がその運営を行ってましたが、近年は地域団体や利用団体の代表者で構成する組織で自主的に運営しています。
そして、2018年度から地域、家庭との連携、協働により、地域参画型の多様な学校を目指すために、連合町内会長、地域団体の代表、PTA会長、学校・地域コーディネータ、学援隊代表を委員とする学校運営協議会が設置されました。
全国的には、学校や教育施設で凶悪な事件が発生したこともあって、学校を閉ざして防犯設備を導入し、あるいは、警備会社へ委託して部外者の立ち入りを制限し、防犯体制を強化する傾向もありますが、しかし、どんなにセキュリティを強化しても、警備体制を強化しても、日常の地域の皆さんの目に勝る防犯はありません。学校施設を利用している皆さんの目、地域住民の目が、学校と子供たちの安全と安心を護ることに繋がっています。(文責:事務局)
【参考:※1 学制(抜粋現代語訳)】
「みなさんにお願いしたいのは、これから一般の国民は、華族、武士、農民、職人、商人、あるいは男女の区別さえもいっさいへだたりなく、町でも村でも家庭でも、学校で学ばないものなど、ひとりもいないようにする、ということです。ご父兄のみなさんは、この趣旨をよく理解し、お子さんたちへの愛情をさらに厚くして、子供達を必ず学校に通わせなさい。もちろん高度な学問については、その教育を受ける受けないの判断は、それぞれのご判断におまかせします。けれど、幼年教育については、男女の別なく、全児童を学校に通わせなければなりません。それが親の責務というものです。地方官においては、片田舎の身分の低い者にいたるまで、この趣旨が国民全員に洩れなく伝わるよう、学制の意味を詳しく各人に申し、諭(さと)し、文部省の規則に従って、学問が普及するよう努力しなさい。」
<スポーツも体育もどちらもすてきな言葉>
先日の新聞に「体育の日」を「スポーツの日」に改称するという記事が掲載されてました。「スポーツ」という外来語が、今ではすっかり日本に馴染んだ言葉となり、体を育むということを包括した、スポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、スポーツマンシップ、健康な心身をつちかうという2011 年に制定されたスポーツ基本法の趣旨に則った事情によるものだと思います。
ところが、ある新聞記事では「体育は、教育的な重圧を感じる表現なので」というような理由を挙げていました。まことに残念なことです。日本では、すべての国民に対する教育を昔から大切にしてきました。ですから、識字率はいつの時代も世界一ですし、道徳的な民度もまことに高いわけです。
<米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話>
米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話はご存じの方が多いと思いますが、長岡藩の小林虎三郎は黒船が来航したときに、横浜開港を建言したこの横浜と縁のある人物でもあります。幕末の戊辰戦争のときに虎三郎は、やってくる官軍に対し、幕府の正当性をしっかりと訴えながら、なおかつ戦わないという独自の非戦論を唱えました。
しかし、長岡藩は他藩と同盟を結んで開戦し、結果は敗れて14万2700石あった藩の収入は、わずか6分の1の2万4000石に減じられてしまいました。藩士たちは貧窮のどん底に追いやられてしまいます。
あまりの藩内の貧窮ぶりに、藩主の親戚の三根山(みねやま)藩の牧野氏がみかねて、長岡藩に米を百俵送ってくれることになりました。
飢えに苦しむ藩士たちからしてみれば、ひさびさに米にありつけるありがたいことです。けれど、百俵の米というのは、藩士とその家族の数で頭割りしたら、ひとりあたりわずか2合程度にしかなりません。長岡藩の武士たちは、その妻子に至るまで、みな腹を空かせていました。
しかし、武士は民のためにあります。戦乱を招き、結果として民にまで苦労をかけている。二度とそうならないためには、二度と同じことが起こらないようにしっかりとした人材を育成する必要があると、藩の大参事となっていた小林虎三郎は考えました。
「長岡藩の家訓は『常在戦場』にある。戦場にあれば、腹が減っても勝つためには、たとえ餓死してでも我慢をしなければならぬ。貴公らは、その家訓を忘れたか。百俵の米も、食えばたちまちなくなる。だが教育にあてれば、明日の一万、百万俵となる」と、そう藩士を説得して、その百俵を元手に、長岡藩内に学校が建てられました。 現在は、長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校となっています。
<富国強兵 地域と一体となって教育環境を創造する>
時は明治になります。豊かで強い国を作るために、緊急に全国的な学校教育制度を確立し学校を整備する必要がありました。明治四(1871)年 7 月18 日に文部省を設置し、学制取調掛という掛を設置して、イギリス・アメリカ・ドイツ・オランダの教育制度を研究します。
しかし、できたばかりの政府には、まったくお金がありません。では、政府は一体どうしたかというと、翌明治5(1872)年に「学制」を頒布(はんぷ)し、府県でこれを実施するためのわずかな国庫交付金を決定しただけでした。
一 日本中の津々浦々に学校を作りなさい
一 幼年期は男女別なく全児童を学校に通わせなさい
一 地方官はこの趣旨を国民全員に漏れなく伝えなさい ※1参考
それを伝え聞いた者は、誰もが自身で何ができるかを考えました。農村では、貴重な労力が奪われるとの反発もありましたが、それでも地域の有力者は土地を提供し、あるいは、資金を提供し、商人は資材や材料を提供しました。職人は技術を提供し、村人は労力を提供しました。技術や教養あるものは子どもたちにそれを教えました。
そうやって、「学制」頒布(はんぷ)して、わずか3年後の明治8年には、24,225校の小学校が設置され、児童数は1,925,112人にも達しました。このように、日本の教育は、いつの時代も地域と学校が一心同体で育んできました。
<横浜教育ビジョン>
この地域と一体となって教育環境を創造するという伝統は、横浜でも実施されています。2018年度は学校の取り組みが少し変わりました。横浜市では、「横浜教育ビジョン」という長期の構想があって、「教育行政は現場主義に徹します。家庭、そして地域の教育力を高めます。学校を開きます。」というような目標があって、以前から学校施設を地域行事や地域のスポーツクラブ、文化サークルに開放する「学校開放事業」というのがあります。かつては学校の教職員がその運営を行ってましたが、近年は地域団体や利用団体の代表者で構成する組織で自主的に運営しています。
そして、2018年度から地域、家庭との連携、協働により、地域参画型の多様な学校を目指すために、連合町内会長、地域団体の代表、PTA会長、学校・地域コーディネータ、学援隊代表を委員とする学校運営協議会が設置されました。
全国的には、学校や教育施設で凶悪な事件が発生したこともあって、学校を閉ざして防犯設備を導入し、あるいは、警備会社へ委託して部外者の立ち入りを制限し、防犯体制を強化する傾向もありますが、しかし、どんなにセキュリティを強化しても、警備体制を強化しても、日常の地域の皆さんの目に勝る防犯はありません。学校施設を利用している皆さんの目、地域住民の目が、学校と子供たちの安全と安心を護ることに繋がっています。(文責:事務局)
【参考:※1 学制(抜粋現代語訳)】
「みなさんにお願いしたいのは、これから一般の国民は、華族、武士、農民、職人、商人、あるいは男女の区別さえもいっさいへだたりなく、町でも村でも家庭でも、学校で学ばないものなど、ひとりもいないようにする、ということです。ご父兄のみなさんは、この趣旨をよく理解し、お子さんたちへの愛情をさらに厚くして、子供達を必ず学校に通わせなさい。もちろん高度な学問については、その教育を受ける受けないの判断は、それぞれのご判断におまかせします。けれど、幼年教育については、男女の別なく、全児童を学校に通わせなければなりません。それが親の責務というものです。地方官においては、片田舎の身分の低い者にいたるまで、この趣旨が国民全員に洩れなく伝わるよう、学制の意味を詳しく各人に申し、諭(さと)し、文部省の規則に従って、学問が普及するよう努力しなさい。」
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